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山田和樹&日本フィルが世界初演『大澤壽人の芸術』!忘れられた作曲家による幻の大交響曲、83年の時を超えて蘇る!(2枚組)

大澤壽人の芸術

今なお輝きを増し続けてやまない、モダニズムとロマンティシズム
日本音楽史を塗り替える、驚くべき天才作曲家の再発見

「ほとばしる才能が楽譜から匂い立ってくる。
ときにむせかえりそうにもなるほどの音楽の圧力がそこにある。[山田和樹]」


大澤壽人(1906~1953)は戦前、ボストンとパリに留学し作曲を正式に習い始めた。
1933年には、ボストン交響楽団を日本人として初めて指揮しており、《コントラバス協奏曲》《サクソフォン協奏曲》《トランペット協奏曲》のそれぞれの日本初作品を作曲している。大澤は作・編曲合わせて1000にも近い作品を生み出し、若干40代半ばで亡くなってしまい、その後長い間忘れられていた。しかも初演を迎える前の曲を多く残した状態で。
80年以上埋もれていた曲の1つ《コントラバス協奏曲》の独奏を東京都交響楽団の佐野央子が務め、2003年の復活演奏以降話題を呼び、CDや実演される機会が増えた《ピアノ協奏曲第3番》のソロを福間洸太朗が務め、2楽章のサクソフォン・ソロでは上野耕平が登場する。《交響曲第1番》は戦前の日本洋楽史上で最大クラスであり、ボストンとパリで初演を計画されながら実演に至らなかったという「幻の大交響曲」の世界初演。世界で活躍する山田和樹指揮×日本フィルによる演奏で、当日の密度の高い演奏が蘇る。
(Columbia)

『大澤壽人の芸術』
【曲目】
大澤壽人(1906~53):
[DISC1]
コントラバス協奏曲 【世界初演】 (1934)
Concerto for Double-Bass and Orchestra [World Premiere]
1.Ⅰ. Allegretto moderato
2.Ⅱ. Monologue : Moderato
3.Ⅲ. Aria : Andante non troppo
4.Ⅳ. Dialogue : Moderato espressivo
5.Ⅴ.Finale : Allegro con brio

ピアノ協奏曲第3番 変イ長調 神風協奏曲  (1938)
Concerto No.3 in A-flat major “Kamikaze” for Pianoforte Solo and Orchestra
6.Ⅰ. Larghetto maestoso - Allegro assai
7.Ⅱ. Andante cantabile
8.Ⅲ. Allegro moderato - Allegro vivace

[DISC2]
交響曲第1番 【世界初演】 (1934)
Symphony No.1 [World Premiere]
1.Ⅰ. Adagietto - Allegro scherzando
2.Ⅱ. Double Theme and Variations
3.Ⅲ. Larghetto non troppo - Allegro con brio

【演奏】
山田和樹(指揮)
日本フィルハーモニー交響楽団
佐野央子(コントラバス)
福間洸太朗(ピアノ)

【録音】
2017年9月3日 サントリーホール〔サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2017〕(ライブ録音)

[大澤壽人の才能の行方]

大澤壽人の作品には、未初演のものがたくさんある。それは作品が、まず演奏会の段取りがあって、それから委嘱を受けて書き下ろされる形ではなかったことを意味している。上演の機会は予定されていなかったのに、彼によって書き出された音符たち。そのエネルギーはいかばかりであっただろう。
あの時代に、フランスとアメリカという、二大陸を跨いで学んだ作曲家が他にいただろうか。そのバイタリティはどこからきたのだろう。
戦争を挟んで彼の作風は大きく変わることになる。先鋭的な才能を自ら封じるかのように、ひたすらに日本での音楽の普及に貢献する姿勢が貫かれた。自分のための音楽から、人のための音楽へ―

今回サマーフェスティバルで演奏する3曲は、どれも“野心作”と言えるものだ。ほとばしる才能が楽譜から匂い立ってくる。ときにむせかえりそうにもなるほどの音楽の圧力がそこにある。彼の言いたかったこと、問いたかったことは何だったのだろう。
彼の音楽は劇的だ。彼の人生がそうであったように。
一人の作曲家が遺した、ビタミンともなり得るエネルギー。今、そのエネルギーを注意深く抽出して、彼の見ようとした世界、行こうとした世界を体現することが出来ればと思う。

山田和樹(指揮者)
当日の公演パンフレットより

<大澤壽人 プロフィール>
1906(明治39)年8月1日、兵庫県神戸市生まれ。父は神戸製鋼所創業時からの技術者、母はクリスチャン。幼時からキリスト教に囲まれて育ち、20年関西学院中学部入学。山田耕筰が籍をおいたグリークラブで活躍し、25年初来日したフランスのピアニスト、H. ジル=マルシェクスの神戸公演に感銘を受け、作曲家を志した。26年高等商業学部進学。ピアノを在留外国人、ロシアのA. ルーチンとスペインのP. ヴィラヴェルデに師事。神戸オラトリオ協会を設立して自ら指揮者になるなど、関西学生音楽界で知られていた。
1930年関西学院卒業、宣教師らの勧めによって渡米。ボストン大学音楽学部で正式に作曲を学び始めた。32年日本人初の作曲専攻生としてニューイングランド音楽院にも入学。F. コンヴァースに師事した頃から才能が一挙に開花した。
ボストンは当時の世界的な音楽最先端都市で、ボストン交響楽団定期演奏会に登場したA. シェーンベルクや周囲にいたアメリカ急進派からの影響を受け、「交響4部作」と呼ぶべき作品を圧倒的な勢いで作曲。日本最初期の《ピアノ協奏曲》(33年)、バレエ組曲《3つの田園交響楽章》、日本初の《コントラバス協奏曲》、屈指の大作《交響曲第1番》(34年)で総譜枚数500超。無調を取り入れながら「ウルトラモダン」を目指した作品群は、戦前の日本洋楽史に燦然と輝いている。
また、1933年にはボストン響(ボストン・ポップス・オーケストラ)を率いて自作《小交響曲》を披露。新進作曲家・指揮者として注目を集め、指揮者のS. クーセヴィツキに認められた。同響を指揮した初めての日本人であり、ボストンは、生涯に数多くの「日本初」を打ち立てた大澤のスタート地点となった。
1934年大志を抱いてフランスに渡り、エコールノルマル音楽院でP. デュカのクラスに出席、N. ブーランジェのプライベートレッスンを受ける。35年コンセール・パドゥルー管弦楽団を指揮して、パリで日本人初の自作自演の大演奏会を開催。J.イベールや「フランス六人組」のA. オネゲルなど、西洋音楽史の巨匠たちが来場した。《交響曲第二番》《ピアノ協奏曲第二番》、歌曲《桜に寄す》は新聞各紙で絶賛され、指揮も高く評価され、華麗なパリデビューを果たした。大戦前のヨーロッパで「欧米楽壇で通用する一流の作曲家・指揮者」と称えられたキャリアは、邦人作曲家が海外進出を模索した時代に、輝かしいの一語に尽きる。
1936年帰国。凱旋のはずの帰朝演奏会では先鋭の作風が理解されず、日中戦争下の38年に発表した《ピアノ協奏曲第3番 神風協奏曲》は、「愛国的」でないと批判された。戦局の悪化に伴い、活動の場をコンサート会場からラジオや映画、宝塚や松竹の舞台へと余儀なく移すが、このことが逆に、幅広いジャンルの開拓につながり、詩人・画家・映画監督らとの豊かな交流が始まった。かたわらで、神戸女学院の教壇に帰国翌年から立ち続けた。
戦中も創作力は旺盛で、1940年の「紀元二千六百年」に関連した「奉頌3部作」、《交響曲第3番 建国交響曲》《海の夜明け》《萬民奉祝譜》を発表。ラヴェル《クープランの墓》の指揮本邦初演も戦中に行っている。
1945年以降、音楽による戦後復興を目指し、上質で親しみやすい「中間層の音楽」の普及に努めた。49年の《ペガサス狂詩曲》を頂点に、それぞれの楽器の日本初作品である《サクソフォーン協奏曲》(47年)や《トランペット協奏曲》(50年)には、ジャズの要素が前面に打ち出されている。これらはNHK大阪放送局や朝日放送で担当していた毎週の音楽番組から流れ、さらに番組用に、欧米で認められたオーケストレーション技術を磨き、作曲に匹敵する「編曲の世界」を築き上げた。
並行して、ポップス系オーケストラ3団体を設立。1952年には《大佛千二百年祝典譜》で民間放送連盟音楽賞などを受賞、朝日放送1周年記念《電波へのハレルヤ》を発表するなど、超人的な活動を展開。53年には2万人の聴衆が集う西宮球場で「たそがれコンサート」を陣頭指揮、メノッティ《電話》を本邦初演、脚本まで手掛けた放送オペラ《邯鄲》を発表。時代の寵児として多忙をきわめた。
その最中、1953(昭和28)年10月28日に47歳の若さで急逝。作曲・編曲を合わせ1000近くの膨大な作品を遺した。欧米楽壇で活躍できる実力を持ちながら戦争に阻まれ、総作品のうち、演奏会用の多くを作曲したボストン時代の「交響4部作」のいずれも、自身で初演を聴くことのない運命だった。
没後は半世紀以上忘れられた存在だったが、21世紀になる頃、音楽評論家片山杜秀氏と神戸新聞記者藤本賢市氏による「発掘」と尽力によって、再脚光を浴びた。奇跡的な「平成の復活劇」がブームを起こす中、2006年に大澤家は3万点に及ぶ遺品資料を神戸女学院に寄贈。見上げるような業績が明らかにされて、ようやく全貌が現れた天才作曲家である。
生島 美紀子(大澤資料プロジェクト代表)
*当日公演パンフレットより修正・加筆

<山田和樹(指揮) プロフィール>
第51回(2009年)ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。ほどなくBBC交響楽団を指揮してヨーロッパ・デビュー。同年、ミシェル・プラッソンの代役でパリ管弦楽団を指揮し、すぐに再演が決定するなど、破竹の勢いで活動の場を広げている。
2010年には小澤征爾の指名代役としてスイス国際音楽アカデミーで、2012年8月にはサイトウ・キネン・フェスティバル松本でオネゲル作曲「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を指揮。同8月にはサントリー芸術財団サマーフェスティバルでクセナキス作曲《オレステイア三部作》も指揮し、好評を博した。2014年7月にはスイス・ロマンド管弦楽団15年ぶりとなる日本公演を、2016年にはバーミンガム市交響楽団日本公演を成功に導き、2015年~2017年には3年間全9回に渡る『山田和樹 マーラー・ツィクルス』を実施。2015年春にパリ管弦楽団と行ったオネゲル作曲オラトリオ《火刑台のジャンヌ・ダルク》も絶賛された。2017年2月にはベルリン・コーミッシェ・オーパーで《魔笛》を指揮し高い評価を得た。
これまでに、パリ管弦楽団、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン放送交響楽団、サンクトペテルブルグ・フィルハーモニー交響楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団、ストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団、エーテボリ交響楽団、ローザンヌ室内管弦楽団、トーン・キュンストラー管弦楽団、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団、シュトゥットガルト放送交響楽団など各地の主要オーケストラで客演を重ねている。2014/2015年にはアメリカデビュー、2015/2016年にはオセアニアでデビューするなど、活動は世界各地に広がっている。

<佐野央子(コントラバス) プロフィール>
新潟県栃尾市(現・長岡市)出身。12歳よりコントラバスを始める。東京藝術大学卒業、同大学院修了。在学中、芸大史上初となる女性コントラバスソリストに選ばれ、若杉弘指揮、芸大フィルハーモニア管弦楽団と共演。2006年、ドイツミュンヘンに留学し研鑽を積む。
小澤征爾オペラプロジェクト、サイトウ・キネン・フェスティバル松本、東京春の音楽祭、宮崎国際音楽祭、霧島国際音楽祭、ラ・フォル・ジュルネinナント(フランス)など多くの音楽祭に参加。
バイロイト・インターナショナルユンゲオーケストラアカデミー、全国主要オーケストラの客演首席を務めるなど、オーケストラ奏者としての活動のほか、ソロ奏者として、全国各地で演奏会を開催し、好評を博す。
今までに、村上満志、永島義男、山本修、W.ギュトラー、H.ブラウン の各氏に師事。
現在、東京都交響楽団コントラバス奏者。

<福間洸太朗(ピアノ) プロフィール>
パリ国立高等音楽院、ベルリン芸術大学で学ぶ。20歳でクリーヴランド国際コンクール優勝(日本人初)およびショパン賞受賞。
これまでにカーネギーホール、リンカーンセンター、ウィグモアホール、サントリーホールでリサイタル他、クリーヴランド管、イスラエル・フィル、NHK交響楽団など国内外の著名オーケストラとの共演も多数。2016年7月にはネルソン・フレイレの代役として急遽、トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団定期演奏会において、トゥガン・ソヒエフの指揮でブラームスのピアノ協奏曲第2番を演奏し喝采を浴びた。CDは昨年発売した「ショパン~LEGACY~」など、これまでに12枚をリリース。現在ベルリン在住。

カテゴリ : ニューリリース

掲載: 2018年06月14日 00:00