こんにちは、ゲスト

ショッピングカート

NEWS & COLUMN ニュース/記事

東祥高『エイシアン三部作』

カテゴリ
o-cha-no-ma LONG REVIEW
公開
2013/04/30   18:01
テキスト
text:畠中実

シンセサイザー奏者、東祥高の代表作を初CD化

楽器というものは、さまざまな種類が世界中に広く伝播しているため、それぞれに地理的な起源を特定することがむずかしいとも言われる。しかし、音楽というものがある楽器固有の特性、それに備わった音階などによって規定され、特定の音楽様式とむすびつくことはあるとするなら、ある楽器を選択することがすなわち自身の音楽的指向性を表明することとイコールになりえる。それゆえ、シンセサイザー、ひいては電子音楽は、大野松雄の言うような「この世ならざる音」を探求、表現するための装置および音楽であると考えることもできる。一方、楽器としての民族的、歴史的起源やその来歴との関係を持たない電子楽器は、それゆえに、作曲家、演奏家のアイデンティティを問われるものとなる、という側面があったのではないか。たしかに、喜多郎などの80年代前後の日本におけるシンセサイザーを前面に使用した音楽は、アジアの音楽というアイデンティティを強調しているし、YMOのように、外部からの視線による日本としてあえてシニカルに表現することもその一端のように思える。東祥高の『エイシアン三部作』は、1980年から82年にかけて発表された。70年代の中頃よりシンセサイザーを使用して音楽制作を始めた東が、来日していたタンジェリン・ドリームのメンバー(誰かは不明)から、なぜシンセサイザーで「日本の音楽」を演奏しないのかと問われたことが、この作品へとつながる音楽性の変化の契機となったという(喜多郎はクラウス・シュルツと出会ったことがきっかけとなったという)。のちにタンジェリン・ドリームのペーター・バウマンが主宰するプライヴェート・ミュージックから作品を発表し、海外へもリリースした。しかしこの音楽は、所謂ニューエイジでもアンビエントでもなく、また叙情的でも神秘的でもない。どこか幾何学的な非常に抽象度の高い音楽が展開されている。